昭和42年12月27日 夜の御理解
御理解第90節 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」
ここんところが有り難いですね。簡単に事が(なされる?)、私くしあの、昨夜から今日にかけていろいろ言うたり思うたりしてくることのなかに、本当に椛目でもう10年、15年、18年というように信心の稽古をなさっておられる方達が、いつのまにか何とうなしにおかげを受けていかれておることですね。もう思えば思うほど、本当におかげを受けておることですね。
まあだこんなに小さかった子供が、もう20歳も25にもなっておる訳ですよね。18年経っておる間に。もう一番始めのここに御神縁を頂いた時に、生まれた子供が言うならもう18歳満18歳になってるんですよ。その18年間の事を振り返ってみるとですね、本当にこう別にさあ、金光様の信心する様に成ったからクラを建てたと、ね。その商売がこんなに大発展のおかげを頂いてきたと言う様なふうにはなくてもです。
何とうなしにおかげを受けて。ははあ、この調子でいきゃあやはりおかげ頂く・・・。ね。そして18年間、お互いが辛抱してきた。その辛抱して、それはどうしてかと言うとね、「匹夫の凡夫だから」とこう言うておられますですね。ちょうど言うならば、下から上に水を流すようなものだから難しいと。上から下へ水を流すのはみやすいけれども、下から上へ流すように難しい、ね。
だから一時は大変難しい事もある。けれどもそこを一時は難しい事があっても、辛抱して行く内、ね、その辛抱して行く内におかげが受けられるというのじゃない、辛抱して行く内に徳が受けられると言う所が素晴らしいでしょうが、ね。信心辛抱の徳が身に付いて来るのですよ。今日は北野の秋山さんでしたか、もう本当に考えてみれば考えて見るほどにですね、子供達が一人一人。
こうおかげを頂いていく姿というもの。もう何とも言えんその、神様の働きの中にですね、おかげをこうむっておる。これ善導寺の原さんも昨夜それを話しておられました。どうして道を開くであろうかと。例えばこの人どんが嫁入る時どげなふう、どうなるじゃろうか。この人達が嫁子をもらう時にはどげなふうにして、大体できるじゃろうかと思うて居る様な事がですね日頃何でもない。
これはもう嫁入り金、これは嫁子をもらう時の金というふうに、特別積み立て積み上げがしてあるわけでもないのにです、それでもやはり神ながらにいつの場合でも、必要な時には必要に応じて何とはなしに、おかげを受けておるそれが有り難い、ね。信心辛抱はと、信心辛抱さして頂かにゃあいけんのですよね。もう何かその、目の目キザシ(奇跡的にという意)ににこう、こう(ちんば?)が立った。
めくらが目が開いたというようなおかげもあります。けれどもそういうおかげを頂いておる人ほどしか信心が続いていないのは不思議なくらいです、ね。いわゆる信心辛抱をいていくうちに身に徳が受けられると仰る、その徳を身に受けていかないから、中途半端になってしまうのですよね。辛抱していくうちに、例え一時難しいことがあっても、辛抱していくうちに徳が受けられるというところが有り難い。
今日私はこの御理解90節の一番初めの「上から下へ水を流すのは見やすいが下から上へ流すのは難しい」と。難しい事が沢山あるがこういうことも大変難しいと言う事を一言聞いてもらいたいと思う。ひとつのね思い込みというものが抜けないという難しさです。お互いがこうだと思い込んでおることがなかなか抜けないのです。これが年をとればとるほど頑固になるから、余計に難しいけれども年寄りだけじゃない。
若い者でもそうである。こうだと自分が思い込んだことはいくら言われても、ああそうですな、そうだなあと思っておってもいつの間にか思い込んだことがまた元に戻ってしまっておる。それはちょうど上から下へ水を流すように難しい。これは北野の中村さんが、私一家の者が履くだけの履物はお供えをしたい。これは一番初めからの念願である。だから私共はおかげで履物を買うたことがない。
もちろん、中村さんだけではない、あっちこっちからも頂きますから、もう履物も沢山こうたまっとる。ところが私が大体非常にその、好みがあるもんですからね、私はもういろんな下駄を履きたくないのですね。こういうふうな下駄をこういうふうに履きたいと。それで中村さんは自分所のお店で売っておる一番最高の下駄が親先生には良いものだとこう思い込んでおられるわけです。
もう自分方ではこれが一番上等、ね。というその下駄をお供えするのが、もう神様へのお供えと同じことじゃから、それが神様が喜んで下さることが親先生も喜んで下さることだということ。ところが私は中村さんが言われたよりもまだずっと安い下駄を私は求めるわけなんです。私はそういう下駄が好きなんです。もう中村さんが持って来なさった、こげな下駄ば持って来なさったもう重箱んごたる。(笑)
もう私くしあれは昔からふるふる好かんとですもん、あの下駄は。そればってんがあれはやっぱり下駄屋で見てみると、一番太かとが一番高いです。それけんもう私だけじゃない、先生方ももう、久保山先生も度々、言わんなさいます。家の親先生はこげんとげな履きなさらんよ好きなさらんよって、あんたのこげんともってきよるばってん。はあそうでしょうのちから言いござるばってんから(訳=はあ、そうでしょうね。
と言うておられるけれども)持って来る時には、やっぱり一番大きかと持って来る。しかも、アズキ色の皮のかかった、皮の緒です。またこれが私がふるふる好かんとです、あの皮の。ところが布(キレ)の尾よりもあの皮の尾が高いとです、もう高いのであればね、もう高いのが一番良いと。もう自分方でこれが最高のというのを持って来ると思い込んであるらしいんですよ、うん。これはもう度々なんです。
もう一遍は換えてもらいましたが、換えて持って来てもらう時にはまたそげんとば持って来ちゃるですもん、私くしや今度下ろしてから、あらこの頃わざわざこれは換えてもろうたっじゃろうかち言うちから出しましたところがやっぱ広かですもん。こらもういよいよいかんばいち言うちから、もうやっぱ思い込んでおられますことはそんなに難しいのですよ、ね。ところがね、お互い笑っとりますけれども。
日常生活の上に、改めなければならないことの中に思い込み、これが本当と、一遍思い込んだことはですね、やっぱり思い込んでそれがなかなか改められない。それが別にまあ当たり障りがないことだからいいような事柄も沢山ありますけれどもですね、やはり信心は日々の改まりが第一じゃと仰るんですから、ね。何十年間、自分の身についてきたものであっても、それがやはり人に迷惑をかけるとか。
また自分がより向上する事の為ならば、私はここんところを難しいもんだとやっぱ思わにゃいかん。本当に成程下から上へ水を流す様に難しいんだと。やっぱ思わにゃいかん。そしてそこんところを本気で改めていかなければいけないと言う事ですね。そういうひとつような事柄、私共の日常の中にもあると言う事です、ね。それを改めていくのが信心。日々の改まりが第一なりと仰っておられるのですからね。
どうぞ。